惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆⑯)





室町幕府奉行衆は、鎌倉期以来の家柄をその出自とし、幕府の裁判
をはじめ、立法などにも関与する実務のエキスパート集団でした。

鎌倉期と同様、幕府の全国的統治を実現する重要な存在でしたが、そ
の身分的、経済的な地位は、恵まれたものではありませんでした。

これは、武を文よりも上位とみなす、武家の発想にもその一因があっ
たと思われます。

室町期中期には、商業活動が活発となり、社会の複雑さが増してくる
と、彼らの法制知識等は重要なものとなってきます。

六代将軍足利義教は、父義満同様幕府の権力強化をめざし、軍事力
として奉公衆を、そして権力基盤の核となる官僚機構の中心に奉行衆
をおき、将軍独裁をめざしました。

義教以降、奉行衆を統括する伊勢氏、蜷川氏のみではなく、飯尾氏、
松田氏などの有力奉行人の中には、守護大名に匹敵する財力を保持
する者もあらわれました。

奉行人斎藤氏は、足利直義と密接であったことで、直義の失脚後急速
に力を失い、地方大名の奉行人になったり、奉公衆に転化した者も多
く、幕政中枢からは遠ざかりますが、主要な奉行人家として命脈を保
ちます。

私自身は斎藤利三は、この斎藤家のどこかに出自を持つ者だと思って
います。しかし、恐らくは春日局周辺が多重に隠蔽工作を重ねる中で、
利三自身の出自が不明確化したのかもしれません。(奉行衆・奉公衆⑪)

これは、当時の徳川政権にとって、親豊臣氏である長宗我部氏残党は
忌み嫌うものであり、利三と石谷氏の関係は、家光擁立派周辺では公
にしにくいものがあったのでしょう。(四人の天下人㊲)