惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆⑰)

 
 
 
奉行人斎藤氏と、美濃国に強大な勢力を保持した美濃斎藤氏とは、そ
の活動範囲は明確に区分できます。
 
しかし共に平安時代の武人藤原利任を祖と称しており、北陸地方を拠点
とし、藤原尚忠の流れが、美濃目代として、美濃国の皇室領管理に赴き
、土着し美濃斎藤氏となります。
 
斎藤利三の出自といわれる河合斎藤氏は、同様に尚忠の流れといわれ
ますが、この流れと幕府奉行人斎藤氏との関係性は不明瞭です。
 
「兼見卿記」内に、光秀家臣として登場する赤塚氏は、河合斎藤氏であり
幕臣として活動しており、この一族が幕府奉公衆として、活動していた
ことが想像されます。(光秀と天下人㊶)
 
美濃斎藤氏は美濃国中西部を活動拠点としていましたが、土岐氏の西進
により、その支配下に入り、守護代へと転化していきます。
 
美濃斎藤氏は土岐氏の継嗣争いに乗じ、美濃国支配の実権を掌握してい
きます。その際たる人物が斎藤妙椿ですが、妙椿は土岐家家臣でありなが
ら、幕府の奉公衆の一員として足利将軍と主従関係を形成しており、将軍
に対しては、主家土岐氏と対等な関係にありました。
 
妙椿の影響下にある地域は、美濃のみではなく近江、越前、尾張、伊勢に
およびました。
 
妙椿は侵略した郡上の土地を、領主東常緑の和歌の才に免じ、返還する
文化人であり、父利永は都で連歌師蜷川親当らとしばしば連歌会を開催
しています。(光秀とその時代⑳)
 
これらの事例から、斉藤利三が美濃斎藤氏嫡流家の流れを汲む者である
ともみられますが、そう断定できる根拠はありません。
 
妙椿は文明十一年(1479年)、家臣の不満から可児郡アケチに隠棲し、そ
の地で翌年死去します。
 
斎藤嫡流家はしばしば可児郡の寺社に寄進しており、当時は明智家の所
領であったアケチと斎藤家との関係性、たとえば血縁関係の存在等が想像
されます。
 
斎藤利三の出自は明確ではありませんが、このいずれにせよ、利三が、幕
府と密接に関係する家柄の者であることは、間違いないでしょう。