惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆⑱)





寛政重修諸家譜」では、斎藤利三の正妻は斎藤道三娘とあります。

道三の娘は他に、織田信長濃姫菊亭晴季室、筒井順慶室があり
、ここに光秀、利三と筒井順慶の接点がみられるのですが、確たるも
のではありません。

道三の室には、有名な深芳野がいますが、深芳野は稲葉一鉄の妹で
あるとの説があります。

斎藤利三の継室は、稲葉一鉄の娘であるとの説があり、この正妻
が深芳野の娘であるならば、利三は稲葉家と多重に婚姻を重ねたこ
とになります。

いずれにせよ稲葉家は、利三の刑死後、その子息を保護しており、関
係が密接であったことには疑いの余地はありません。

道三の室で、系図上実在を確認できるのは、小見の方と呼ばれる、明
智氏がいます。

小見の方は濃姫の実母であり、光秀の叔母にあたるとの説にたてば、
濃姫と光秀は従兄弟同士となります。

又これに信長実母土田御前がからんでくると、複雑な様相を呈してき
ます。(光秀と信長③、四人の天下人㊹)

斎藤利三が、前斎藤守護代家中枢と密接に係わり合いを持つ者である
とするならば、道三との関係性は疎遠であるべきと考えられ、利三は
これ以外のどこかに出自を持つ者なのでしょう。

道三の子利治は、道三の戦死後は織田家家臣となり、天正十年、本能
寺の変で、信忠重臣として戦死しています。

斎藤利三は、妙心寺塔頭で、稲葉家の菩提寺である智勝院に葬られ
ました。

過去帳には、湖翁宗西居士、天正十年六月十七日没とあります。

斎藤利三が指揮する部隊が光秀軍の最精鋭であったことは、本能寺襲
撃と、その後の山崎戦での布陣および戦闘経過からわかります。





妙心寺智勝院 墓標
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