惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆⑲)





「寛政重修諸系譜」では、斎藤利三の正妻は斎藤道三の娘であると記され
ています。この説にたてば、利三と、道三が家督を譲った義龍は義兄弟と
なります。

この義龍には、嫡男龍興以外に、数名の女子があり、その中の一人が、伊
勢貞良に嫁ぎ、貞為、貞興兄弟を産んでいます。

この女子は芥川御料人として、虎福(貞為)とともに、斎藤氏から伊勢氏あ
てにだされた書状内で、実在が確認できます。

又、同書状内には、他の女子が、近衛前久の側室として、召しだされたと推
測される記述があり、この女子が近衛信尹の母になったと思われます。

すでに伊勢氏と光秀との関係性については述べていますが、ここに利三との
関係性が付加されることで、光秀、利三、貞興そして蜷川氏との強固な絆が
存在していたことがわかります。(明智資料㊾)

山崎の戦いでは、斎藤利三伊勢貞興は、最前線で共に戦ったとあります。
光秀軍のなかで、この両者は極めて戦意が高かったのでしょう。

斎藤利三は山崎戦後に、近江堅田で捕捉され、斬首された後、胴体と接合
され、同様に首と胴体を合わされた光秀の隣に、磔にされ、さらされました。
(光秀戦闘史Ⅱ㊵)(四人の天下人㉛)

その横には、明智秀満の父が、生きたまま磔にされており、秀満を含む三人
が、信長謀殺の首謀者であると、秀吉が認識していたことがわかります。

斎藤利三は、幕府奉公衆の家柄の者であったと記されることがあります。
しかし、利三が将軍直臣として活動した事をうかがわせる、一次、二次史料
は存在しません。

利三は、光秀嫡男光慶と行動をともにしており、天正十年に、光秀居城で開
された連歌会には、ともに丹波から近江に来訪したことが、吉田兼見の日
記に記されています。

利三と光秀は縁戚関係にあり、足利義昭との関係性からではなく、結びつい
たと考える方が自然であるように思われます。



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