続濃州余談⑰
惟任光秀が、雑賀の土橋重治に送った、書状の原本が見つかりました。
行方不明になっていました。(毎日新聞9月12日)
原本が見つかったことで、この書状の内容が再度注目されますが、光秀
の本能寺襲撃後の六月十二日に出されたとあります。
当時、重治は信長の雑賀攻めを逃れ、四国の長宗我部氏のもとにあり、
長宗我部氏ー斎藤利三ー光秀という流れで、この書状の内容がやり取り
されているならば、ここに足利義昭が絡むことで、興味深い視点が展開さ
れることになります。
この側面からも注目されます。
いずれにせよ、間接的にしても、光秀と足利義昭の交流がみてとれ、光秀
研究の一次史料としては、最高位のものの一つになる可能性があります。
ただ、この書状の写しでの時代認定は、天正五年との判断であり、上意と
は信長を指すと考えられていました。宛先は土橋平次とあり兄守重を指す
とされます。(光秀戦闘史㊷)
書状原本を見ると、宛先が平尉とも読めます。平尉は重治のことで宛先は
重治となります。
その他、発見者の意訳が飛躍しすぎと思われるところが若干あり、再検討
を要しますが、書状の原本が見つかったのはうれしい限りです。
光秀書状原本