惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆⑳)




斎藤利三は光秀同様その前半生には謎が多い。経歴には諸説あり、三好長慶
の家臣松山重治に仕えたとか、美濃白樫城の城主であったとか定まらない。

父斎藤利賢は実在が確認できるが、前斎藤氏の系図の乱れから、それ以前を
遡るとよくわからなくなります。

利三が真に利賢の子であったかには不確定なものがあり、子春日局は、実は利
賢の子であったのではとの説もあります。

光秀同様、敗者は歴史を残せない現実が如実にあらわれています。利三が、斎
藤妙椿を代表とする、幕府奉公衆の系譜をひく者か、奉行衆斎藤利泰の末裔で
あるとしても、その存在は蜷川氏との関係からもわかるように、足利幕府の行
政組織と密接に関係する者であることには間違いないでしょう。

利三が、光秀の信長謀殺における中心人物であった、との根拠の一つはここに
あります。

鎌倉幕府より引き継がれた、守護地頭制に立脚した荘園管理を、政権運営の軸
におき、奉行衆が行政組織の要となり、奉公衆の軍事力がそれを補完する将軍
を頂点とする行政機構に属する家柄の人間であったということです。

手短に言えば、伊勢氏、蜷川氏、その他光秀の家臣団に吸収された、旧幕臣
考えのひとつは、政権中枢に近い所に身を置くことでありました。

それを阻害されたと感じる人物の一人が斎藤利三でありました。利三は本能寺襲
撃時の軍事的中核であり、その後の山崎戦でも同様でした。(光秀戦闘史㉙)

山崎での敗戦後も、堅田に身を隠し、再起を図ったことからも、彼の思いの強さ
が伝わってきます。

光秀の信長謀殺には、天皇、公家は関与していないことは、前章ですでに述べま
した。

本能寺襲撃時における光秀の軍事力の大部分は丹波の国衆であり、丹波と幕府
の関係からもわかるように、足利旧政権に近い部分が、光秀の本能寺襲撃時の
実際の戦闘を担ったことは確かな事です。(四人の天下人㊴)

光秀には当時二ヶ所の所領があり、坂本城を拠点に旧叡山領を治め、洛北武士
団がその軍事力の中枢にありました。

もう一つが、新所領である丹波国の武士団であり、斎藤利三明智秀満が城代と
して所領を治めていました。

本能寺襲撃に参加した部隊は丹波から来ており、坂本領の大部分の近江衆は参
加していません。

山崎戦後敗れた光秀勢は、丹波に向けて撤退しており、吉田兼見はその日記の
中で、落武者は洛北には一人もあらわれなかったと述べています。
(光秀戦闘史㊴)

兼見の縁者である明智秀慶が助命され、その後秀吉の家臣に取り立てられること
からも、彼ら洛北武士団が戦闘には参加してなかった事がわかります。
(四人の天下人㉚)