惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

2014-11-25から1日間の記事一覧

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史⑰)

「言継卿記」内の九月廿四日付けの記述によると、叡山焼討 ちを終えた光秀は 早旦明智十兵衛摂州高槻ヘ罷向、千計有之云々、相誠用意 之用云々 とあり、兵千人ほどを率いて摂津高槻へ出陣したとあります。 又その翌日廿五日の記述には 早旦奉公衆一色式部少…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史⑯)

光秀の時代、敵対勢力による寺社の焼討ち行為は、特別珍しいことでは なかったようです。 天文元年(1532年)、都の人々の多くは日蓮宗に帰依し、六条本圀寺を 中心に強い勢力を持っていました。 この年、一向門徒が大挙して都に押し寄せるとの噂があり、都…

濃州余談&㊹

延暦寺僧兵の起源は、寺が所有する宝物類を警護する為の、僧侶の 自警団的組織にありました。 延暦寺では、最澄の弟子円仁の流れをくむ山門派と円珍の寺門派が 天台座主の座をめぐり、衝突を繰り返していました。両派に属する僧兵 は武装化を進め、対立する…