本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史⑯)
なかったようです。
天文元年(1532年)、都の人々の多くは日蓮宗に帰依し、六条本圀寺を
中心に強い勢力を持っていました。
この年、一向門徒が大挙して都に押し寄せるとの噂があり、都の町衆は
徒である町衆が握りました。
のを禁止するよう求めますが、これも拒絶され怒りは頂点に達します。
宗寺院に対して、延暦寺の末寺となり上納金を払え、という無理押しから
たうえで、六角氏の援軍とともに都に攻め込みます。
この後、都で日蓮宗は禁教となり急速に力をなくしましたが、天文十一年に
都での布教が許可され、寺院は再建されました。
「志賀の陣」の折、高野蓮養坊は、田中の渡邊氏と夜毎延暦寺に忍び込み
放火を繰り返しています。
この蓮養坊は僧体であったでしょうが、どこの宗派に属するものであったか
興味深いものがあります。蓮養坊は、佐竹宗実の父にあたり、宗実の妹は
佐竹氏と縁戚関係のある磯谷氏の系図には
佐竹蓮養坊ト申スハ比叡山ノ政所ヲオオセツケラレ、則チ、山ノ下、山城
ノ国、高野ニ居住、ソノ辺ヲ所領、比叡山ノ守護役也。蓮養坊ノ息女ハ吉
田兼見郷ノ御簾中也
とあり、蓮養坊が叡山焼討ち後、比叡山一帯の財政管理をまかされたと記
され、高野が本貫地であり、娘が吉田兼見の御簾中(正妻)であるとありま
す。この佐竹氏はこの後光秀と行動を共にし、岩倉山本氏、渡邊氏、磯谷
氏が光秀から離反するなかで、明智氏の家臣としての立場を明確にし、宗
実はのちに明智秀慶となのります。
東寺