本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史⑰)
ちを終えた光秀は
早旦明智十兵衛摂州高槻ヘ罷向、千計有之云々、相誠用意
之用云々
とあり、兵千人ほどを率いて摂津高槻へ出陣したとあります。
又その翌日廿五日の記述には
早旦奉公衆一色式部少輔、同駿河守、上野中務大輔等摂州
ヘ出陣云々、不見物之間人数不知之、可尋之、人数千計有之
云々
とあり、翌日早朝奉公衆が一色式部以下千名ほどで出陣した
ことがわかります。
光秀が、叡山焼討ち後まもなく、奉公衆から独立して千名の軍
勢を率いて、織田家家臣として出陣するさまが見て取れます。
この時光秀に従った者の名は記されていませんが、佐竹氏等
の洛北武士団や、宇佐山城の森家家臣団、そして新たに光秀
の傘下に入った、志賀郡の土豪たちだったでしょう。
それは叡山西麓、叡山、そして叡山東麓の琵琶湖沿岸を、支
でした。