惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史⑰)



「言継卿記」内の
九月廿四日付けの記述によると、叡山焼討
ちを終えた光秀は

早旦明智十兵衛摂州高槻ヘ罷向、千計有之云々、相誠用意
之用云々

とあり、兵千人ほどを率いて摂津高槻へ出陣したとあります。

又その翌日廿五日の記述には

早旦奉公衆一色式部少輔、同駿河守、上野中務大輔等摂州
ヘ出陣云々、不見物之間人数不知之、可尋之、人数千計有之
云々

とあり、翌日早朝奉公衆が一色式部以下千名ほどで出陣した
ことがわかります。

光秀が、叡山焼討ち後まもなく、奉公衆から独立して千名の軍
勢を率いて、織田家家臣として出陣するさまが見て取れます。

この時光秀に従った者の名は記されていませんが、佐竹氏等
の洛北武士団や、宇佐山城の森家家臣団、そして新たに光秀
の傘下に入った、志賀郡の土豪たちだったでしょう。

それは叡山西麓、叡山、そして叡山東麓の琵琶湖沿岸を、支
下におき、織田家家臣として戦に臨む、光秀の旅立ちの姿
でした。




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