惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

濃州余談&㊹

 
 

延暦寺僧兵の起源は、寺が所有する宝物類を警護する為の、僧侶の

自警団的組織にありました。

延暦寺では、最澄の弟子円仁の流れをくむ山門派と円珍の寺門派が
天台座主の座をめぐり、衝突を繰り返していました。両派に属する僧兵
武装化を進め、対立する派の堂塔を焼き払いました。

かっての過激派諸派武装化への経緯と全く同一ですが、延暦寺
僧兵組織は数も多く、山法師と呼ばれ、都の人々に恐れられました。

彼らは、貴族等の所領に対して押領を繰り返し、抗議する朝廷に対して
要求貫徹の為、日吉山王神社の神輿をもちだし、強訴を行ったりしまし
た。

天下三不如意として、「加茂川の水、双六の賽、山法師」をあげ、その
横暴振りを白川上皇は嘆きましたが、時の権力者は僧兵の軍事力を、
自己の勢力拡大に利用しました。

叡山僧兵の軍事力は、足利将軍らにより、禁令を持ってその実力を削
がれ弱体化していきましたが、戦国時代に入ると延暦寺は、麓の国人
領主らの勢力を取り込み、再び強力なものになりつつありました。

光秀の調略活動により、これら土豪の軍事力を奪われた延暦寺は、全
山焼討ちにされ、歴史の表舞台から引き摺り下ろされました。

これを延暦寺側では、元亀の法難といいます。天海はここ延暦寺で修
行し、この時は甲斐の武田氏のもとにいたようです。
慶長十二年、復興した延暦寺から探題執行に任ぜられ、東塔南光坊
に住んでいました。

その後家康に招聘され駿府に行き、天台の教えを講義し、家康から帰
依をうけます。ここに黒衣の宰相南光坊天海が誕生します。

延暦寺を焼討ちした光秀が天海になったとの説は、この事からも荒唐
無稽なものであることがわかります。(四人の天下人㉙)


イメージ 1