濃州余談&㊹
延暦寺僧兵の起源は、寺が所有する宝物類を警護する為の、僧侶の
自警団的組織にありました。
天台座主の座をめぐり、衝突を繰り返していました。両派に属する僧兵
は武装化を進め、対立する派の堂塔を焼き払いました。
僧兵組織は数も多く、山法師と呼ばれ、都の人々に恐れられました。
彼らは、貴族等の所領に対して押領を繰り返し、抗議する朝廷に対して
要求貫徹の為、日吉山王神社の神輿をもちだし、強訴を行ったりしまし
た。
天下三不如意として、「加茂川の水、双六の賽、山法師」をあげ、その
横暴振りを白川上皇は嘆きましたが、時の権力者は僧兵の軍事力を、
自己の勢力拡大に利用しました。
叡山僧兵の軍事力は、足利将軍らにより、禁令を持ってその実力を削
がれ弱体化していきましたが、戦国時代に入ると延暦寺は、麓の国人
領主らの勢力を取り込み、再び強力なものになりつつありました。
山焼討ちにされ、歴史の表舞台から引き摺り下ろされました。
行し、この時は甲斐の武田氏のもとにいたようです。
に住んでいました。
その後家康に招聘され駿府に行き、天台の教えを講義し、家康から帰
依をうけます。ここに黒衣の宰相南光坊天海が誕生します。
延暦寺を焼討ちした光秀が天海になったとの説は、この事からも荒唐
無稽なものであることがわかります。(四人の天下人㉙)