惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ㉖)

 
 

価値観を共有することは、偉大なる創造者のまわりに、多くのエピゴーネン

を産み出す結果となります。

経済のエキスパートであり、稀有な軍事天才である織田信長は、その帝国
を担う人材を、あらゆる階層から抜擢しその才を活用しました。

光秀、秀吉らはその代表的な例であり、彼らなくしては信長の帝国拡大の野
望は達成されなかつたでしょう。

光秀が信長を葬り、秀吉はその光秀を瞬時にして倒し、信長の遺児に腹を切
らせ、信長の妾を串刺しの磔に処して、全国平定戦を貫徹していきます。

光秀、秀吉、柴田勝家滝川一益らが共有する価値観は信長の思想そのも
のであり、彼らも又武をもって覇をとなえる戦いの時代の申し子達でした。

天正十年六月七日、吉田兼見安土城を制圧した光秀のもとを訪れます。

向州對面、御使之旨、巻物等相渡之、悉之旨請之、予持参大房之鍬一
懸遣之、今度謀叛存分雑談也

とその日記のなかに記しているように、光秀は兼見に今回の謀反について
思うところを述べています。存分には意趣とかうらみとかの意味合いもあり
光秀が感情をまじえて今回の謀反について述べていたことが窺い知れます。

この時光秀が述べた内容は記録の中になく、他の史料のなかにも登場しま
せん。

安土城内には、明智秀慶もいて、彼の取次ぎで光秀に会っていますから、
秀慶らも光秀自身が述べた今回の謀反に至る大義は直接あるいは聞き及
んでいたことは間違いないでしょう。

光秀自身が吐露した言葉の一端でも残っていれば、この乱に至った原因を
正確に知ることができたでしょう。

明智氏滅亡後、彼らのような光秀関係者は堅く口を閉ざし、秀吉の庇護のも
と生き延びて生きます。




イメージ 1