本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ㉕)
天正十年六月三日付けの「多聞院日記」にはこう記されています。
今日當國衆ハ悉大安寺・辰市・東九条・法花・寺邊陣取云々、如
何可成行哉
ちは大安寺等にそれぞれ結集したとあります。
これは、筒井順慶の指示によるものではなく、それぞれの判断で
自領の武装警護に入ったと考えた方が妥当でしょう。
瞬時に崩壊しました。
翌四日には
筒井ニハ南方衆・井戸一手ノ衆惟任ヘ今日立云々
陣しました。
しかし翌日には
昨日山城ヘ出衆ハヤ引退了 と近江に向かった明智軍と合流できず
、引き返してきます。しかしこれは全軍ではなく
先日城州ヘ立タル人数今日至江州打出、向州ト手ヲ合了
と、同日の後の記述にあり、筒井軍の一部が近江にまで入り、明智
軍との作戦に従事していることを記しています。
木津衆もこの時点では順慶に同心しており、在所で戦闘態勢に入っ
ています。五日の時点では、筒井順慶とその傘下の部隊は光秀との
一味同心を堅く心に刻んでいました。
しかし八日になると、予定されていた河内への筒井軍の侵攻戦は俄
に順延となり、郡山城に塩米を運び込み籠城戦の動きをみせはじめ
ます。
とあるように、順慶の覚悟が変化してきた事を伝え
先日山城立筒人数昨今打返了、藤吉近日ニ上決定決定ト、依
之覺悟替ト聞ヘ了
と、明智軍のもとに派遣していた部隊の大和への帰陣を伝え、羽柴
秀吉らの畿内への接近が、覚悟替えの原因であると述べています。
筒井軍の明智軍からの離反は現地でも混乱をもたらしたのでしょう。
帰国する筒井軍を追って、光秀からの使者藤田傳五が大和に到着
します。順慶は藤田に今後は味方しない旨伝えます。
の心中を述べています。
しかし、順慶はこの時点で既に秀吉に同心の起請文を送付していま
した。
結局は信長の後ろ楯による順慶の大和支配であり、寺院や国人領主
をまとめきれなかったのでしょう。
順慶は光秀の武装蜂起の決意を事前に知り、それに参画していた可
能性が高いと思われます。
への接近により、筒井一族は方針変換したのでしょう。
大安寺