惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ㉗)

 
 

光秀の敗因の一つは、準備不足からくる兵員不足であることには

間違いがありません。

秀吉勢に対抗するだけの兵力があれば、山崎戦での勝利が可能
であったでしょう。勝利しなくても相手に相当な打撃を与えれば、
持久戦の中で、毛利氏、長宗我部氏、上杉氏との連繋の道を探
ることも可能でした。

なぜ準備不足に陥ったのかは、光秀の決意から実行までの期間
の短さにありました。甲斐侵攻戦において、光秀は、信長、信忠ら
織田家嫡流周辺の警護の甘さを認識していました。

光秀が信長に殺意を感じるほどの嫌悪感を持ったのはこの長旅の
間であったと思われます。

光秀が信長討伐を決意したのは、信長が信忠とともに、都に入る情
報キヤッチしたときでしょう。

天正十年五月二十七日、信忠は森乱宛に書状を出し、信長の西国
出陣の報せを聞いたので、諸行事を取り止め、都で信長の到着を待
つから、信長より今後の行動の指示を仰ぎたい旨伝えて欲しいと述
べています。

信忠ですら、信長の詳細な行動スケジュールを把握できていなかっ
たことがわかります。

信忠がこの状態ですから、光秀には信長の宿泊予定地など皆目見
当もつかなかったかもしれません。

都での常宿である本能寺である可能性が高いと推測できますが、長
きにわたり上洛が途絶えていた信長ですから、別の場所に入る可能
性もありました。

五月二十九日、雨の中未刻(午後二時頃)信長は上洛し本能寺に入
ります。

二十七日、二十八日と光秀は愛宕山に参籠していますが、これには
信長の都での動向をさぐる意味もあったと思われます。

光秀とその家臣らは、愛宕山山頂から注意深く信長らの動きを、監
視していたとことでしょう。


愛宕山山頂からの京都市
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