惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ㉘)

 
 

天正十年五月廿九日信長は上洛します。この日の天気は「兼見卿記」

内に 自午刻雨降 とあるように、あいにくの雨模様でした。

兼見らは信長を出迎える為、山科まで罷り出ますが、先行する森乱ら
近習衆の出迎え無用の達しにより、数時間待機したのにもかかわらず
雨の中自邸へひきあげます。

信長上洛の報せは、即刻光秀のもとへもたらされたことでしょう。

光秀の愛宕山参詣時、明智秀満斉藤利三らが同行したとの記録は
ありません。

しかし、愛宕山頂には光秀とともに彼らの姿があったと考えられ、部
隊の侵入経路、本能寺と妙覚寺との遮断経路、信長の退路を断つ為
の布陣等綿密な作戦会議が、光秀と実行部隊の長である彼らの間で
なされたと思われます。

彼らは作戦会議の終了後、部隊編成を最終調整するために、それぞれ
の居城のある丹波へ戻り、光秀のもとには嫡男光慶のみが残りました。

光秀が愛宕山連歌会を開催した、との情報は信長近辺にもたらされ、
光秀らの軍事行動をカムフラージュする効果もあわせ持っていたと想
像されます。

光秀は、攻撃目標である、本能寺、妙覚寺、二条城などの構造を熟知
していたと思われます。

天正四年三月廿八日の「言経卿記」には

報恩時普請見物罷向了、老父、予、葉室弁才也、二条殿近々
御移徒云々、右大将殿ヨリ申付ラレ、明智十兵衛尉申付云々

とあり、山科言経が父言継らとともに報恩寺跡に造られる、二条晴良
邸の普請を見物に行ったとあります。

理由は定かでありませんが、信長が二条晴良の為に新しい邸宅を普請
し、その奉行に明智光秀が任ぜられたあります。

光秀が洛中の主要な建築物の普請にたずさわっているのがわかり、建
築に関する才能を有していたことが窺い知れます。

妙覚寺に隣接していた元の二条晴良邸は、村井貞勝らにより、武家風に
改修され、信長時代の二条城となるのですが、妙覚寺とともにその防
禦構造を、光秀は仕事上知りえていたと考えられます。

妙覚寺から移動した織田信忠が防御する二条城攻撃は順調に進まず、
隣接する近衛邸の屋根から鉄砲を撃ちかけることで制圧に成功したこ
となど、その建築構造をよく知りえている光秀ならではと思われます。


二条晴良邸跡(織田信忠終焉地)
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