惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ㊵)

 
 

六月十五日、その日記の中で、吉田兼見は光秀の最後をこう記しています。


向州於醍醐之邊討取一揆、其頸於村井清三、三七郎
殿令持参云ゝ

光秀は醍醐近辺で一揆に討取られ、その首は村井清三により織田信孝
届けられたとあり、その最後は十三、十四両日のいずれかであり、十三日
とは断定できません。

村井清三とは村井貞勝の一門で、貞勝親子は二条城で戦死しますが、清
三は生き残り、山崎戦の時には、織田信孝のもとにありました。

清三は吉田兼見とも懇意であり、京都所司代である貞勝の配下として都で
活動しており、当然光秀の姿形は熟知していたのでしょう。

一揆により討取られ、織田方に持参される首を、清三らが首実験していた
中で、光秀の首を探しあてたのであり、十五日には兼見もその事実を知り
、日記にその旨記していますから光秀の首にほぼ間違いなかったと思われ
ます。

これは「惟任退治記」内の記述と完全に一致し、このように光秀の首が、秀
吉、信孝のもとに届けられました。(光秀とその家族①)

「多聞院日記」内にある、光秀が一揆勢に叩き殺されたという記述は事実で
ある可能性は極めて低い、と言わざるをえません。

光秀の首と胴体は、十六日の同日記内の記述に

向州頸・筒体、於本應寺曝之云ゝ

とあり、討取られた明智勢の首三千程とともに本能寺に曝されました。

宣教師の記述には、その腐臭はものすごく本能寺近くにあった教会の窓は
開けることはできなかったとあります。

このように光秀の最後はよくわかっていません。土民に竹槍で脇腹を刺され
自害した、との話も創作の域をでません。

兼見は記してはいませんが、十八日堅田で生捕られた斉藤利三が洛中渡し
の後、六条河原で斬首され、その後光秀ともども、首と胴体をつなぎ合せら
れ粟田口に「ハタモノ」とされ罪人として曝されました。

都と坂本の中継点の位置にある粟田口には、光秀居城がある坂本の領民
が通行し、その多くが善政を敷いた光秀の最後の姿を目にしたことでしょう。

二十三日には、村井清三らを奉行としてその東付近に首塚がもうけられ、三
千以上の明智勢の首とともに、その穴へ光秀、利三の死体は投げ込まれま
した。

         次は、本能寺襲撃の謎にせる(光秀と朝廷・公家社会移ります


粟田口跡
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