惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とは何か①)

 
 

明智光秀は確かに実在した。彼自身が書きしたためたと思われる

書状も多く残存しています。

公的な文書も多く残り、彼自身が記した花押も確認できます。しかし
現在の私たちは、彼の正確な生年月日や享年を、知ることができま
せん。

光秀の父母に関しても諸説あり、その生誕地とともに確たるもの
はなく、家譜なども一切存在していません。

出自といわれる明智氏自体は、良質な一次史料を多く残していませ
んが、「太平記」の中にもその氏族名を確認でき、支族である妻木氏
は、その末流が残存しています。

光秀の妻である妻木煕子が真にその出自を妻木氏とするのかも、こ
の支族の菩提寺である妻木町にある祟禅寺の寺譜からは、確認でき
ません。

公家の日記に登場する妻木には二名あり、光秀の正妻と信長の側近
の女性がそれにあたります。

この二人が姉妹である可能性は高いのですが、それを裏付ける史料
はありません。(光秀戦闘史㊶)

光秀の時代、武士、僧侶を出自とするものは、いわゆる家系図をつくり
その出自の正統性を他に示しました。

そしてその氏族と縁戚関係をもった武士の家は、その事実を家譜のな
かの家系図等に記しました。

又所領内にある寺院や有力名主に宛てた安堵状等の文書が、明智氏
名で現存しているものはなく、その当時の知行地すら確認できません。

要するに、明智氏に関する良質な一次史料は、妻木郷を所領とした明
智妻木氏の中に残存する物がほとんどで、奉公衆明智氏の所領に関し
ては、幕府奉行人奉書一通あるのみで、明智氏嫡流の所領はどこであ
ったかわかっていません。(明智資料㊾)

確かに戦国時代といわれるこの時代には、多くの武士氏族が戦いに敗
れ、所領を奪われました。例えば薩摩の市来氏は島津氏にその所領を
奪われ、一族の市来家朝は大内氏のもとで所領の回復を図っており、
他にも多くの例をみることができます。

しかし、市来氏等はその本貫地に寺社等に宛てた古文書を残しており、
その所領支配を確認できます。

たまたま何らかの理由で明智氏が支配した所領に関する文書が失われ
たとも考えられますが、これは明智氏の本貫地である明智郷がどこにあ
ったかの疑問と深く結びつき、私たちを更なる混乱にひきこみます。

明智(惟任)光秀は、その出自を真に明智氏とするのかは残念ながらな
にも確認できていません。

ただわかつているのは、歴史上に登場したこの人物が、木下秀吉との公
的な連署署書状のなかで、明智光秀と名乗っていることです。

しかし藤吉郎秀吉の木下氏がいかなるものであったかを考えれば、光
秀の名乗った明智氏にも、考えなければいけないことが多くあります。