惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその時代⑫)


松永久秀は、現代において、戦国時代の武将としての評判はかんばしく
ない。もっとはっきり言えば、悪評高いイメージがつきまといます。

戦国時代の三大梟雄(残忍で猛々しい人の意味)といわれ、その悪行が
今に伝わっています。しかしこの人の一生をよく見てみると、光秀同様後
世において、その悪評が作られたと思わせる節があります。

久秀は、低い身分から身を起こし、三好長慶にその才能を認められ、長
慶の畿内制覇の戦いに貢献します。文武に優れ、その築城技術は格段
のものがあったといいます。その一生は戦いの連続でした。長慶も彼の
働きを評価しており、娘を久秀に嫁がせます。

長慶の嫡男義與の死去を、久秀の暗殺によるものとする話も、根拠のな
いもので、長慶の死後、三好三人衆とともに、三好政権の運営にあたり
ます。足利義輝は長慶の死を好機ととらえ、幕府の威信回復につとめ久
秀らと対立を深めていきます。

これは、信長と義昭の関係悪化のプロセスと、全く同じで、信長は義昭
を追放という形で処理しましたが、この義輝という人は、剛毅な人で、武
人であり、僧侶あがりの義昭とは異なり、簡単には引き下がらない人で
した。戦いとなり久秀らは、義輝を自害ではなく、殺害してしまいました。
これが、彼の悪評の最大原因ですが、剣術にすぐれた義輝としては、そ
ういう死に方を望んだのかもしれません。

江戸時代になり、徳川氏と同じ清和源氏の足利将軍を、殺害した久秀は
主殺しの汚名をきせられ、将軍にたてつく不届き者の烙印をおされました
。これは三好三人衆も関与した事件でしたが、彼らの方は話題にものぼ
らないのは不思議な事です。又実際に襲撃したのは、久秀嫡男久通でし
た。

もう一つの悪行といわれる、東大寺大仏殿焼き討ちも、そこが戦場となっ
たのでやむを得ないことでした。久秀の悪行を更に際立たせる為、付加さ
れた事件で、その焼失範囲は、平氏の焼き討ち時にくらべて格段に少な
く、フロイスの「日本史」によれば、大仏殿に放火したのは、政権内での主
導権争いで敵対することになった、三好三人衆側のキリシタン武士である
と述べられています。

このように久秀の悪評を作る最大原因は、義輝殺害にあり、足利将軍を徳
川将軍にみたて、将軍権威の絶対化を図る、江戸幕府の政策にありました。


イメージ 1