惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

明智資料⑬


多聞院日記内の、永禄十年十月十日付の記述はこのようなものです。

今夜子之初点ヨリ、大佛ノ陣へ多聞山ヨリ打入合戦及数度、
兵火ノ余煙ニ穀屋ヨリ法花堂ヘ火付、ソレヨリ大佛ノ回廊ヘ
次第ニ火付テ、丑刻ニ大佛殿怱焼了。

大佛ノ陣は、三好三人衆方を指し、多聞山は、松永方の拠点多聞山
城を指します。真夜中11時頃から、松永方が夜戦をしかけたとありま
す。当然松明等を使用しての戦闘であったでしょう。

矢に射ぬかれ倒れた兵士が持つ松明は、当然何かに燃え移り、火災
を引き起こしたと思われます。穀屋より法花堂へ延焼したとあり、それ
から大佛殿の回廊に次第に火がまわり、午前2時頃、大佛殿はことご
とく焼け落ちたとあります。

松永久秀が、大佛殿に火を放ったという記述はみられません。

信長公記」内には、久秀が火を放ったかのような記述がありますが、
これが江戸時代の人々の、久秀悪行説の根拠になつているかもしれ
ません。


多聞山城跡
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