惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその時代⑬)


永禄十一年上洛し、都の新たなる支配者になった信長と義昭に対し、松
永久秀がよしみを通じてきた時、兄である13代将軍義輝を久秀に殺され
た義昭は、強く嫌悪感を示し、その申し出を拒絶します。

久秀が信長に献上した名物「九十九髪茄子」の効果が、あったというわけ
ではないでしょうが、信長は義昭に対し、久秀を幕府直臣としてとりたてる
事を認めさせます。

その後、天正二年、久秀は信長に背きますが、多聞山城を差し出し、許さ
れて今度は信長の家臣となります。

信長としては、かって都と畿内一円を支配化においた久秀を、自分の家臣
とすることで、その政治的効果をねらったのでしょうか。

言い方が極端ですが、武田信玄上杉謙信が信長の家臣となるのに匹
敵する出来事であり、久秀の最盛期の勢力は信玄以上の強大さと名声が
ありました。

しかしこれは、土台無理な話で、野心家の久秀は再度信長に対し叛旗を
翻します。

荒木村重の謀反の時と同じく、それは本願寺攻めの最中におこりました。
久秀軍は無断で戦線を離脱し、信貴山城に籠ります。久秀にも村重同様
毛利氏と本願寺側から、調略の手が伸び、信長打倒の後は、畿内一円の
支配を委ねるぐらいのことを、告げられたかもしれません。

毛利氏と本願寺は、調略等の情報戦に長けていました。毛利元就以来の
伝統でしょうか。その謀略戦は畿内一円にわたり、その中心人物は安国
恵瓊でした。それと対抗したのが、織田方の黒田官兵衛ということにな
るのでしょうか。

天下(狭義で天皇のいる場所を指す)を支配する勢力は、足利氏から、細
川京兆家、三好長慶へと移り、久秀をへて信長へと目まぐるしく変わってい
きます。彼らは短期間でも天皇と朝廷、そして都を支配下に置き、天下人
と呼ぶにふさわしい存在でした。

信長を本能寺で討ち果たした光秀も、十日間という短期間でしたが、間違
いなく天下人でありました。。