惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常⑳)


天正四年五月七日、巳刻、酉刻に大和国の当山(金峯山)が鳴動し、二筋
の光が、大阪にむけて走ったと「多聞院日記」に記されています。

大阪においては、この巳刻、織田信長石山本願寺勢と、激戦を展開中で
あり、酉刻、信長軍は勝利したといいます。

多聞院英俊は、法敵本願寺勢の敗北を「奇特」と言っています。

この戦いは苛烈なものでありました。

五月三日、原田直政を総大将とする、織田軍は石山本願寺に攻めかかりま
すが、数千挺の鉄砲で武装した、本願寺勢一万余に、逆に包囲され原田直
政以下主だったものが討ち死にします。

本願寺勢はその後、光秀、佐久間信栄らが籠る天王寺砦に攻撃を開始しま
す。この砦は防御施設としては不十分で、光秀らは畳を立て、牛馬を殺し、
蔽物を作り、本願寺勢の鉄砲から身を守ったといいます。

信長はこの報せを聞き、「カノ者等ヲ攻メ殺サセテハ、世上ノ非難ハ必定
タルベシ、ソレハ無念デアル」と言い、明衣(沐浴のあとに着る白布の浄衣
、寝間着のこと)のまま、馬廻り百騎ほどで、都を飛び出していったといい
す。

急な出陣で、兵士が集まらず、武将だけが揃った状態であるにも関わらず、
信長は三千ばかりで、一万五千もの敵勢へ突撃を敢行し、これを打ち破りま
す。

この時信長は激戦の中で、傷を負い、足を鉄砲でうたれたといいます。
最前線で信長は陣頭指揮していたのでしょう。
四十歳をすぎ、決して若いとはいえない、信長の鬼気迫る奮闘の様子が浮
かんできます。

光秀にとって、光秀らが死ぬのは無念であると言って、救援に駆けつけた
信長への感謝の気持ちは、とても大きいものであったと考えられます。

五月十三日、吉田兼見は都から大阪へ降り、信長本陣に戦勝祝いの献上
物を届け、続いて光秀を見舞いその苦労をねぎらっています。


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