惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

濃州余談㉚


山科言継は、永禄十二年七月に、信長の居城のある岐阜を訪れています。


八日に都を出発し、坂本宿の布屋に宿泊し、九日は朝妻の北村萬介のとこ
ろで昼食をとり、垂井の木村甚介のところに、その夜は宿泊しています。

代金は連れの者が支払ったのでしょうが、言継はそれぞれの主人に扇を二
本贈っています。細かい事によく気が回る人だったようです。

言継の旅の目的は、困窮する朝廷の財政難を救うための、資金調達にあり
ました。最初は、三河の家康のところを訪問する手はずでしたが、急遽信長
の所に寄り道をします。

光秀や日乗上人からなんらかの助言をうけたのでしょうか。

十日巳下刻、言継らは岐阜に到着します。到着すると、信長の側近である右
筆の武井夕庵のところに、使いを出し、信長と会う手はずを整えます。

そして

明智市尉二近所ニテ行合之間、倉部方へ書状言傳了

と「言継卿記」にあるように、明智市尉と宿の近所で出会い、倉部(言継の
子言経)への手紙を、都へ届けるよう依頼しています。

言継はこの二週間程前に、都の自邸で明智市尉の訪問をうけています。市
尉は体調が悪いのか、言継に薬を所望しています。市尉はたびたび言継邸
を訪問しているようで、その都度薬をもらっています。

この時言継は明智市尉に、都と岐阜の連絡係を依頼したのでしょう。

恐らくは、光秀の近親者であると思われますが、この市尉という人のことは、
よくわかっていません。

明智光秀本人であるとの説もあります。言継が、岐阜到着後すぐに会ってい
る事や、都での交流の様子をみてみると、この人物が岐阜、都のいずれにも
拠点を持っていたことをうかがわせます。

信長と会った言継は、老齢にもかかわらずご苦労であると、信長からいたわ
りの言葉をもらい、一万五千疋もの大金を与えられます。更に遠江国境の前
線にいた家康にも使いを出し、五千疋を供出させています。

ちなみに、光秀は元亀二年、言継に二百疋を贈っています。この当時の、三
者の財政規模がわかり興味深いです。


岐阜城から見た尾張遠景
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