惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人⑦)


天正元年(1573年)四月一日織田信長は、吉田兼見に対して父兼右
の「南都滅亡時には、北嶺も滅亡し、都に災いが起こる」との発言はい
かなる根拠によるものかと問いただします。

兼見は「父兼右の発言は根拠なきもの」と答えます。

信長はこれを「奇特」とし、洛中放火を決定します。これは、信長に叛
旗を翻し挙兵した、足利義昭に対抗する処置でした。

信長は寺社への放火を禁じたようですが、実際は上京は悉く灰燼に帰し
、一面の焼け野原になりました。焼き討ち後、義昭は信長に降服します。

この時の、織田軍の略奪行為には、すざましいものがあったといいます。
僧侶の所有する金銀や茶道具を奪い、女子供の所持品までも剥ぎ取っ
たと宣教師は記録しています。

これには、室町府のあった上京を焼き討ちし、足利幕府の実質的崩壊を
もくろむ信長の意図がみてとれます。

信長は、侵攻した地域に対して、地元の要請を待たず、禁制を与え保護
しています。

禁制を拒否しないかぎりは、その地域は信長にとり味方となり、保護の
対象となって、放火や略奪などから免れました。

このような信長があえて、上京焼き討ちを実施したのは、比叡山焼き討
ちと同じく、旧体制の崩壊をシンボリックに、演出したかったのかもしれ
ません。