惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人⑥)


永禄三年(1560年)五月十九日未明、今川軍は織田方の丸根、鷲津両
砦に向けて、攻撃を開始しました。

前日の軍議は、軍ノ行ハ努努コレナク、色六世間ノ御雑談マデニテーー
であり、重臣たちは、運ノ末ニハ、智慧ノ鏡モ曇ルトハ、比ノ節ナリーー
と信長を嘲笑し帰宅します。

今川軍による、両砦攻撃開始の注進を受けた信長は、敦盛ノ舞ヲ遊バシ
ーーとあるように、人間五十年下天ノ内ヲクラブレバーーと敦盛を舞い
ます。

下天とは、仏語で六欲天の下層の四王天を指します。四王天の一日は、
人間界の五十年にあたり、人間の命の短い事を、比喩しています。

敦盛を舞い終えた信長は、法螺を吹かせ、鎧をつけ、立ったまま食事を
とり、小姓衆五人を従えて、清洲城を飛びだして行きます。

この五人は、岩室長門守、長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨守、賀藤弥
三郎でした。

熱田神宮まで三里を一時間ほどで到着します。この時点で、信長ら六騎
の他は、雑兵二百ばかりが集まっただけでした。

その後、善照寺砦に入り、更に中島砦に移ろうとする信長を、遅れて到
着した重臣たちは、兵が少ないのが敵から丸見えになると、制止します
が、それを押し切り中島砦に移ります。

この時兵力は二千ばかりであったと、信長公記は記しています。

その後、信長は桶狭間で義元を討ち果たすのですが、この戦いには諸説
があります。

しかし基本的には、義元の首のみを狙った奇襲戦であったことには間違
いがないでしょう。

上総介信長ハ、御馬ノ先二今川義元ノ頸ヲモタセラレーーとあるように
信長自ら、義元の首を馬上にかかげて清洲に凱旋しました。

嘉吉の変で、将軍足利義教を暗殺した、赤松満祐は、その首を槍先に
掲げて京を退去したといいます。その前例に倣った訳ではないでしょう
が、意気揚々と清洲に凱旋する、信長の様子が目に浮かびます。

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