本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人⑥)
砦に向けて、攻撃を開始しました。
前日の軍議は、軍ノ行ハ努努コレナク、色六世間ノ御雑談マデニテーー
と信長を嘲笑し帰宅します。
今川軍による、両砦攻撃開始の注進を受けた信長は、敦盛ノ舞ヲ遊バシ
侯ーーとあるように、人間五十年下天ノ内ヲクラブレバーーと敦盛を舞い
ます。
人間界の五十年にあたり、人間の命の短い事を、比喩しています。
敦盛を舞い終えた信長は、法螺を吹かせ、鎧をつけ、立ったまま食事を
とり、小姓衆五人を従えて、清洲城を飛びだして行きます。
この五人は、岩室長門守、長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨守、賀藤弥
三郎でした。
熱田神宮まで三里を一時間ほどで到着します。この時点で、信長ら六騎
の他は、雑兵二百ばかりが集まっただけでした。
その後、善照寺砦に入り、更に中島砦に移ろうとする信長を、遅れて到
着した重臣たちは、兵が少ないのが敵から丸見えになると、制止します
が、それを押し切り中島砦に移ります。
この時兵力は二千ばかりであったと、信長公記は記しています。
その後、信長は桶狭間で義元を討ち果たすのですが、この戦いには諸説
があります。
しかし基本的には、義元の首のみを狙った奇襲戦であったことには間違
いがないでしょう。
上総介信長ハ、御馬ノ先二今川義元ノ頸ヲモタセラレーーとあるように
信長自ら、義元の首を馬上にかかげて清洲に凱旋しました。
嘉吉の変で、将軍足利義教を暗殺した、赤松満祐は、その首を槍先に
掲げて京を退去したといいます。その前例に倣った訳ではないでしょう
が、意気揚々と清洲に凱旋する、信長の様子が目に浮かびます。