惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

濃州余談㉜


足利義輝が、三好三人衆らに殺害され、義昭も命を狙われます。

義昭は奈良をひそかに脱出し、和田惟政を頼ります。

惟政とともに、六角氏を頼りますが、その対応は冷淡なものでした。

その後、越前朝倉氏のもとに赴きますが、優柔不断な朝倉義景は、
義昭を奉じて、都にのぼる気概を持ちえませんでした。

その頃、朝倉氏に仕官していた光秀が、義景は駄目だから、美濃の
信長を頼るのが最善であると、細川藤孝らに助言したとあります。

にわかには信じがたい話ですが、このあたりの話は基本的には、明
智軍記から、光秀関係を引用した部分が多い、細川家記から成立し
ていて、確実なことはわかりません。

信長公記」は、信長と義昭の接近に対し、尽力した人物として和田
惟政のみをあげています。

惟政は越前へも同行し、村井貞勝らと岐阜から越前へ、義昭を迎え
に行っています。岐阜でなんらかの根回しをしていた事を、うかがわ
せます。

信長と光秀の出会いは、何時だったのかはわかりません。

しかし光秀が、信長、義昭に両属する人物として、登場することを考
えれば、この時期から、光秀は歴史の上に一歩を踏み出した、と思
われます。

イメージ 1