惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人⑭)


「実隆日記」によると、文明十六年(1484年)三月十日に、九代将軍足利
義尚の連歌会に、土岐明智頼宜が出席したとあります。

又明応七年(1498年)十月に、土岐明智玄宜、同政宜が連歌会に出席し
たと、同じく記されています。

長亨元年(1487年)の、義尚による、六角氏討伐の軍の中に、美濃守護
土岐成頼嫡男政房があり、その四番衆として玄宣、政宣が出陣していま
す。彼らが明智嫡流の流れと思われます。

この明智玄宣と、妻木郷周辺の所領を巡って争ったのが、土岐明智上総
介父子で、この所領の実権を獲得後、妻木氏を名のります。

資料的に確認できるのはこれぐらいですが、明智氏嫡流は、土岐氏ととも
に都で、将軍に近侍していたと思われます。(光秀の出自と前半生④⑤)

下克上の中で、明智氏嫡流は一族に所領を乗っ取られたのでしょう。


イメージ 1