惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

続濃州余談⑤



里村紹巴は、奈良一乗院の門跡に仕える松井昌祐を父として誕生します。

しかし紹巴の幼名、通称は不明であり、父の死後、興福寺明王院の喝食
となります。大東正雲から連歌の手ほどきを受け、十九歳頃剃髪し紹巴と
名乗り、連歌の師匠周桂と共に上洛したころから歴史に登場します。

権力指向の強い、エネルギッシュな人だったようで、三条西家との結びつ
きが強く、三好長慶松永久秀らを有力なパトロンとして、有力連歌師
しての基盤を武家のなかにも築きました。

新たなる都の支配者織田信長が登場すると接近を図りますが、信長は連
歌に対して全く興味を示さず、紹巴は信長の有力家臣と交際を深めていき
ます。

細川藤孝とは旧知の仲であったらしく、永禄十二年、藤孝が奪還に成功し
勝龍寺城で「初何百韻」を興行したのをはじめ、その後もほぼ毎年連歌
興行に同座しています。

藤孝と紹巴は気があったらしくその交際は紹巴が死去するまで続きます。
光秀と紹巴は、藤孝を介して知り合ったのでしょう。天正二年、大和の多
聞山城に入った光秀は、紹巴を招き連歌を興行しています。

光秀と紹巴の交際はこれ以前からあったと思われ、天正六年毛利氏との
戦闘に備え播磨に向かった光秀は、姫路書写山より紹巴のもとに手紙を
送り、名所見物ができたことを伝えています。

紹巴の交際範囲は羽柴秀吉にもおよび、天正六年五月、紹巴邸にて、秀
吉の西国出陣に際し戦勝を祈願する為に連歌会が興行されました。

これは「太閤千句」と呼ばれ、発句は聖護院道澄の 常盤木もかつ色みす
る若葉かな  で始まっています。

このように紹巴は織田家家臣団との結びつきを強めますが、同年六月に
は、毛利家一族の吉川広家の為に連歌興行の労をとっています。

天正八年にも、毛利一族の為に連歌作法書を贈っており敵味方の枠を
超えて活動していることがわかります。

光秀の連歌好きには、紹巴の影響が色濃く見受けられますが、光秀と紹
巴の関係性は連歌に限定したものであり、たまたま紹巴は「愛宕百韻」に
参加することで、あらぬ疑いを秀吉からかけられ糾問されます。

しかし紹巴は光秀の発句 時は今あめがくだしる五月哉  の中にただな
らぬものを感じ取ったのは間違いないでしょう。



里村紹巴
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