惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ㉛)

 
 

光秀は伊勢貞興妙覚寺に向かわせ、織田信忠を討たせます。その軍勢

は二千程であったようです。

当然作戦開始時刻は、本能寺襲撃と同時刻にセットされていたはずですが
、少しばかり遅れて開始されたようです。

信忠は信長のもとに駆けつけ、共に戦う意志をみせたのですが既に本能寺
が制圧されたことを聞くと、「信長公記」によれば村井貞勝

二条新御所ハ御構ヘヨク侯。御楯籠リ然ルベシ

との言葉に、隣接する二条御殿に移ります。そこには誠仁親王、若宮和仁王
らがいて、信忠は明智方と一時停戦して彼らを禁中へ移した、との記述があ
りますが、実際には「兼見卿記」のなかに

於二条御殿双方乱入之最中、親王御方ーーーー各出御殿

とあるように、二条城内での乱戦の中、命からがら逃げ出したのが現実だっ
たのがわかります。

お供をしていた公家らは戦闘に恐れをなして逃げ出しており、親王父子と女
官らは徒歩で禁裏へ向かいました。

その途中、たまたまこの近くにいた里村紹巴と出会い、彼の駕籠で戻ったと
ありますが、紹巴がなぜそこにいたのか大変興味深いものがあります。

戦闘は 及数刻責戦 とあるように、かなりの激戦が長時間展開されました。
本能寺から、斉藤利三明智秀満の部隊が移動してくると、善戦していた織
田方も討取られるものが続出し

手負死人余多出来、次第無人  の状況となり、信忠は鎌田新介介錯
させ腹を切ります。

信忠の遺骸は鎌田らにより焼かれ、判別不明の状態にされたのでしょう。

信忠の遺骸も信長同様都で晒された、との記述は史料のなかには登場しませ
ん。

二条城では、猪子兵助村井貞勝、下石頼重ら光秀の古くからの知己も戦死
しており、光秀には複雑な感情があっただろうと思われます。