惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ㉜)

 
 

「沙石集」の中に、美濃国桜堂において鎌田二朗左衛門義行が詠んだ上

句  吹きすさぶ風にみだるる糸桜 が記されています。

この句は、桜の枝に結ばれていた下句 ときにきたれどむすびめもなし
と対になるもので、しだれ桜(糸桜)と糸のむすびめをかけ、土岐と解き
に繋げています。

この歌は光秀の時代から三百年も前に詠われましたが、すでに現在の瑞
浪市土岐町を拠点とする美濃源氏土岐氏が、桜堂薬師連歌と呼ばれるこ
連歌集に土岐として登場しています。

愛宕山威徳院において光秀が詠んだ

時は今あめが下しる五月哉 では時と土岐をかけて、土岐氏である光
秀が今天下を支配すると詠み込んでいます。

同席した里村紹巴は明確にその意図を認識したことでしょう。

紹巴は後日秀吉からこの件で詰問されますが、その意図は理解していた
が語るべきものではなかったので、自分一人の心の中に秘していたと伝
え無罪となります。

愛宕百韻」では紹巴の弟子、光秀嫡男光慶らの他に、光秀家臣東行燈
が執筆として参加しています。(光秀とその時代⑳)

行燈は威徳院西坊住職東行祐の親族であり、西坊は愛宕山壽院下坊
と密接であり、細川氏と下坊の関係は深いものがありました。

下坊住職妙菴から細川藤孝のもとに、光秀の決意がこの歌とともに伝えら
れれたのは、この時だったかもしれません。

光秀は多くの歌を残しています。光秀が藤孝興行の連歌会に参加し始めた
頃、藤孝は光秀の詠んだ歌の稚拙さを指摘しています。(光秀とその時代
⑲)

光秀はその指摘に対し研鑽を積み、名歌を残しています。

天正九年十一月には、千句を一日で詠む連歌会を興行し紹巴も同席してい
ます。
その発句は光秀で  降雪に花さき草の軒端哉  と詠みその腕前の巧
みさが見てとれます。
 
同年八月、丹波亀山城を訪れた津田宗及とともに連歌に興じ

名は世にもたかみ山路の秋の月  と詠んでいます。凛とした叙情性が
感じられ、名歌といえます。
 
光秀の連歌への傾倒ぶりは、千句を一日で詠む徹底さからもみてとれ、そ
こには明智氏の連歌好きの伝統がありました。(光秀の出自と前半生④)
 
 
 
桜堂薬師しだれ桜
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