惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

続濃州余談⑩




正親町天皇とその朝臣が、もし織田信長という稀有な個性から、天皇とその
朝廷を織田政権内に、名実共に接収しようと働きかけられても、それに抵抗
する術があったとは考えにくい。

天皇の存在の有無にかかわらず、信長は国王への道を歩き始めており、宣
教師らにとってはすでに国王であった。

足利義満日本国王であったように、信長の王国は、その権力が神から与え
られたものとする国王への、権力集中をめざす専制的なものでありながら、
実際は戦国大名ら封建的な地方領主を温存した形での、統一権力でありま
した。

その体制は、信長の個性に支えられた過渡的な軍事政権であり、室町幕府
の行政制度を色濃く反映させていました。

言い方をかえれば、その政権は佐久間信盛らの織田家付きの家臣団、羽柴
秀吉らのゴロツキ連中、そして新規加入した性格の異なる地方領主たちの
ごった煮集団でした。

そこに都制圧時に足利義昭とともに加わった、細川藤孝に代表される幕府家
臣団を形成していたグループがあり、信長という天才のもと、その領土拡張
戦に貢献するなかで、自己領土とその権益拡大に努めていました。

信長の人生をみてみると、本当に親族との争い、家臣の裏切りの連続であり、
そこから生まれた彼のマキアベェリズムは領土拡大には貢献しましたが、そ
の統治理念の中核にあるべき思想性を大きく削ぎ落としました。

織田信長の王国は、信長上洛時にすでに天皇・朝廷を呑み込んでおり、天皇
にはそこから自立しようとする考えは持ちえなかったばかりか、その領土拡
大の野心に、唯一存在した象徴的な全国権威として貢献することで、再生の
道を歩み始めていました。


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