本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会㉒)
元亀元年三月、信長は正親町天皇の妹聖秀女王に対し、山城国にある女王
所領大往庄を安堵し、光秀は、秀吉とともに土地の名主らに、遅滞無く年貢
を納めるよう命じています。
り、光秀がその任にあたっています。
同寺禅識より押領であると幕府に訴え出られています。(四人の天下人㉔)
将軍義昭からの拝領地に関する事柄を、幕府に訴えるというのはわかりにく
い構図ですが、翌年元亀二年七月には、今度は、前年信長から年貢等の納
入を命じられていた聖秀女王の所領大往庄にて、幕府による違法行為があ
るので、将軍に報告し改善するよう、光秀は信長から命じられています。
この時期の光秀の微妙な立場がわかり興味深いのですが、同年九月、信長
光秀は焼討ちに関わる軍事行動の中心的人物であり、その後志賀郡を与え
はなかったと思われ、覚恕は避難先の甲斐武田氏のもとで都に帰る事無く
死去します。
同年十月、信長は都の町衆に米を貸し出し、その利息を禁裏供御料にあて
から朝廷への資金援助を断ち切ったあとの、それにかわる朝廷援助政策で
あり、そこにも光秀は顔をだしています。
領として押領したとして返還するよう綸旨がくだされます。天皇弟覚恕は曼
殊院門跡でありこの寺領の没収は天皇、覚恕ともに多大な経済的損失を受
けたと容易に推測できます。
が陥落しているので、修理するよう依頼したとの記録があります。
このように光秀は、信長の指示にしたがい対朝廷政策を遂行しているにすぎ
ずそこに朝廷との深い繋がりをみてとることはできませんが、この時期光秀
と天皇、朝廷のあいだに、利害関係が入り乱れ存在していた事がわかります。