惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会㉗)

 
 
 
 

10世紀になると、律令的戸籍制度は崩壊し、氏姓は、源・平・藤・橘をは

じめ、紀・菅原・大江・賀茂・小野・惟宗・清原等に大きく集約されます。

光秀が名乗った惟任の姓は、光秀以前に、その名を持つ特定の人物の存
在を確認することはむずかしいですが、惟の一字に関しては密接に朝廷と
関わりがあることがわかります。(光秀と朝廷・公家社会⑦)

清和天皇は諱を惟仁といい、他の兄弟にも惟喬、惟条、惟彦の御名がつ
けられていました。

清和天皇の第六皇子貞純親王の子経基王が、源姓を賜り源経基と名乗っ
たのが清和源氏のはじまりとされますが異説もあります。

いずれにせよ光秀の時代においても、この惟の字が朝廷と深く関わりの
ある一字である、と衆知されていたことは間違いないでしょう。

光秀が、清和天皇諱が惟仁であったのを、知っていたかはわかりませ
んが、丹羽長秀が、惟住の名を容易に受け入れなかったのに反し、光秀
の改姓作業が、順調に行われたのは、いくつかの一次資料の中で確認で
きます。

この九州名族らしき名前は、信長と近衛家の合作であると思われますが、
九州在地の大名にとって、この名は極めて親近感のもてるものであり、
毛利氏にとっては、織田氏と九州大名との友好関係を感じさせ不愉快極
まりないものであったと想像されます。(四人の天下人⑱⑲⑳)

天正九年、都で、正親町天皇を迎えて、馬揃えが開催されます。このとき
惟任光秀が、この行事の開催責任者に選ばれたのは、極めて合理性の
ある出来事でした。


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