惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆⑦)



「言継卿記」の、永禄八年五月廿一日付けの記述に、足利義輝討死
後の様子が

明日奉公衆、奉行衆悉三好松永等ニ禮被申云々

とあり、将軍家臣である奉公衆、奉行衆が悉く、将軍を襲撃殺害した
三好氏らに、敬意あるいは謝意を表明するために、彼らを訪問する
予定であると述べられています。

判断に迷う所もありますが、奉公衆が奉行衆の前に記され、それぞれ
が別の集団であることが確認できます。

又その二日前の記述には

奉公衆数多討死云々 とありますが、戦いで戦死した家臣のなか
には奉行衆の家柄の者は含まれていません。

伊勢氏嫡流家追放後は、義輝と従来の政所を構成していた奉行衆間
には距離があったことがわかります。

又奉公衆の家柄の者も、恐らくはその多くが義輝政権とは距離を置い
ていたのでしょう。本来将軍の死去には、弔意を示すはずの彼らの大
部分が、殺害犯である三好氏、松永氏を挨拶に訪れる理由が理解で
きます。

義輝殺害に、従来の政所の構成員が関与していたかどうかは不明で
すが、三好氏等を訪問し、礼を述べ、忠節を誓う、彼らの姿からその
対立構造を見て取ることができます。




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