惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㉖)

 

一旦和議が整った信長と義昭でしたが、一ヶ月後には不穏な空気が

両者の間に漂います。

佐久間信盛は、義昭重臣一色藤長へ、「天下之議」で幕府、織田氏
、「信長年寄共血判」を以て定めた「御誓紙」について、織田方は違約
がないと伝えています。

そして義昭の挙動が、「天下之模様笑止成御事」として、世間に飛び
交っているので、義昭はこれを打ち消す為に「御内書」を発給して、信
長にみせるのがいいと言っています。

しかし義昭はそれに応じる事はなく、浅井・朝倉・武田各氏へ密書を送
り打倒信長を呼びかけ、伊勢北畠氏や越後の上杉謙信までも味方に
呼び込もうと画策しました。

元亀四年七月三日、義昭は又しても武装蜂起を試み、二条城を家臣に
委ね、自らは山城国槇島城に立て籠もります。

信長の動きは迅速で、七日には二条城を取り囲み、三淵藤英らは柴田
勝家の勧降に応じ城を明け渡します。十六日には織田軍は槇島城を包
囲し攻撃を開始しました。

この攻撃軍のなかには、明智光秀細川藤孝の姿があり城を焼討ちし
ます。恐れをなした義昭は、嫡男義尋を人質にだして降服します。

その後、義昭は秀吉に警護され河内の枇杷庄へと搬送され、この時の
様子を「信長公記」はこう記しています。

歴々ノ御上臈達歩立チ、赤足ニテ取ル物モ取リ敢ヘズ御退座ーーーー
ーー御鎧ノ袖ヲヌラサセラレ、貧報公方ト、上下指サシ、嘲哢ヲナシ、御
自滅トハ申シナガラ、哀レナル有様、目モアテラレズ

とあります。

義昭は普賢寺で剃髪して、謹慎の意を表し、足利昌山と取りあえず名乗
ります。その後義昭は、若江、和泉堺、紀伊宮崎浦そして備後鞆へと亡
命生活を続けます。

足利義昭はこうして中央政界から退去するのですが、これに懲りたのか
信長は十六代将軍を作ることなく、新たなる政権構想を模索していきま
す。


槇島城跡
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