惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人㉑)

 

天正三年六月二十四日の、「多聞院日記」内の記述に、「多聞山ヘ

去廿日塙九来」とあり、「廿五日塙九京へ歸上了」と、その翌日に
記しています。

塙九とは、塙九郎左衛門直政のことで、この頃信長の命により、大和
国の守護の職にあり、多聞山城へ来たことを述べています。

多聞院英俊は、直政の事を塙九と馴れ馴れしく呼んでいますが、同年
十月七日、同日記内の記述では、「昨日原田備中守槇嶋ヘ歸了ト云ゝ
」と述べ、改姓があったことがわかります。

明智光秀らの改姓は、同年七月でしたから、塙直政も「信長公記」内の
記載はありませんが、同時期に改姓していたことがわかります。

塙直政はこの翌年、本願寺勢との戦いの中で戦死します。一族の中心
的人物を失った塙家は、その後没落していきます。

別喜姓を賜った簗田広正は、加賀での軍事的失敗により、織田家中で
の力を失い、歴史の舞台から消えます。
信長から「別して喜ぶべし」とおだてられ、ありがたく頂戴した名前に
応えることができませんでした。

惟任姓となった光秀と、親密な関係にあった吉田兼見は、その日記のな
かでの呼び名を、「明十」から「惟日」へと変えています。

この改姓作業は、その領民のみならず、公私を問わず、徹底して行われ
た事が、英俊や兼見の日記からも窺われます。

明智十兵衛光秀は、こうして惟任日向守光秀となります。本能寺での出
来事がなければ、惟任光秀として最後を迎え、歴史の上にその名を残し
たと思われます。