惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㊽)

 

天正七年正月十七日、吉田兼見は坂本に赴き、光秀に面会してい

ます。

光秀の接待は丁寧であり、光秀は用事があったのですが、あいにく
の雨降りで、雨が上がるまで再度兼見の為に場をもうけ、うどんと
魚でもてなします。

光秀のこまやかな気遣いをみてとれます。翌日の記述には

妻木在京也、五十疋持参、祓持参、逗留村作也、直罷向

とあり、妻木を訪れたとあります。

この妻木は「兼見卿記」内に何度も登場しますが、前年六月十四日
の記述には、信長が祇園會を見物した時に同行していたらしく

妻木所壺之物、肴色々・双瓶以使者持遣、猪子兵助遣角
豆一折

とあるように、妻木の所に色々送っています。
これは、妻木を介して信長に贈り物をしていると思われます。

この妻木に関しては、複数の人を指しているのでは、との指摘があ
ります。
私は一人の人間で正室煕子の妹である可能性が高いと考えます。

妻木が登場すると、村作(村井貞勝)、猪子高就が続いてあらわれ、
妻木が信長側近と行動を共ににしていることがわかります。

信長の身の回りの世話をしていたのでしょう。
又信長とその女房衆や実母土田御前の間に入り、連絡や調整をし
ていたのかもしれません。

「多聞院日記」には、この妻木が死去した際に、光秀は大変悲しん
だとあります。(光秀と信長④)

二月廿八日、兼見は坂本に光秀を訪れ、丹波亀山にむかい出陣す
る光秀を見送っています。

この時は、兼見には色々揉め事があり、その処置を光秀に頼んでい
す。
出陣する光秀と城外での立ち話とあり、二人の親密さがみてとれま
す。

本願寺、播磨三木城の別所宗治、丹波八上城の波多野秀冶そして
荒木村重とそれらを援助する毛利氏との戦闘が続きます。

丹波での戦局は戦線が多方面化したせいか、毛利氏の戦力分散が
みられ、光秀の丹波攻略戦は順調にすすみます。

五月五日には、氷上城の波多野宗長を攻め滅ぼし、同十八日八上
城の波多野秀冶・秀尚らは降服します。

信長公記」によれば、四月十五日、光秀は

丹波ヨリ、惟任日向御馬進上ノトコロニ、即チ、日向ニ下サルノ
由ニテ、御返シナサレ侯

とあるように、丹波より信長に名馬を送りますが。信長からお前が使
えと送り返されます。信長にはたびたびあることなのですが、送った
人にとってはどうなのでしょうか。

四月廿三日には

隼、巣子、丹波ヨリ惟任日向求メ、進上ナリ

とあり、再び信長に隼の子を送っています。今度は返したとの記述は
なく、信長は気に入ったのでしょう。

荒木村重の謀反は、縁戚関係にあった光秀にも嫌疑がかかる可能
性があったはずで、色々気を使っていたようです。



隼親子
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