惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ㉔)

 
 

天正十年五月十七日、光秀は細川藤孝筒井順慶らとともに安土を離れ

坂本に帰城します。

信長公記」によれば

五月廿五日、惟任日向守、中国ヘ出陣ノ為、坂本ヲ打チ立チ、丹波
亀山ノ居城ニ至リ参着

とあり、光秀は廿五日に、丹波亀山城に移動しています。ほぼ十日程
度坂本に滞在していたのですが、この間の動向は不明です。

二十七日には、愛宕山に参詣し、その夜は当地に宿泊しています。
光秀は太郎坊の面前で籤を引き

神前ヘ参リ、太郎坊ノ御前ニテ、二度三度マデ鬮ヲ取リタル由、申侯

とあるように、数回籤を引いたようです。

凶を連続して抜き取ったと推察されていますが確たることは不明です。
後日、秀吉方の調査が入った時に、西坊威徳院の関係者は光秀の様
子を克明に語ったのでしょう。

翌日、光秀は里村紹巴らと百韻戦勝連歌を興行し、神前に供えます。

時系列的に捉えるとこのようになり、参籠し、戦勝連歌を興行すること
で必勝を祈願しています。

この時点で光秀の決意は揺るぎ無いものになっていました。光秀の傍
らには、嫡男光慶があり、戦勝連歌の結句を詠んで、明智家の末長い
繁栄を祈願しました。(明智資料⑳)(光秀とその時代⑳)

光秀が愛宕山西院に参籠したとき、奈良の地でも一人の人物が参籠
に入りました。「多聞院日記」には

廿七日、東国陣時、立願、今日順慶藤屋二夜三日展覧参籠ーーー

とあり、筒井順慶興福寺藤屋に、甲斐出陣時に思い立ち、神仏に願
をかける為参籠したとあります。

この参籠は長引き、六月一日  順慶今朝結願退出了 とあるように、
六月一日終了し、順慶は翌日の二日に

順慶今朝京上處。上様急度西國御出馬、既安土被帰由歟、依之被
帰了

と記され都へ向かいます。順慶が光秀同様参籠し、二日早朝、都に向か
ったのは、大変興味深いものがあります。

順慶が都に向かった時には、信長が急に西国出馬となり、安土に戻った
ので、順慶は奈良に帰ったと英俊は記していますが、順慶は英俊に嘘を
言っています。信長は既にこの世に存在していませんでした。
 
順慶はどうして都へ向かったのでしょうか。順慶にも光秀に共感し信長を
打ち果たさなければならない理由があったのでしょうか。(光秀と信長⑮)


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