惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会㉓)

 
 


天正三年五月、織田・徳川連合軍は三河長篠で、武田勢を打ち破ります。

武田勢は信玄以来の重臣の多くを討取られ、武田勝頼の西方への侵攻
戦は中断を余儀なくされました。(光秀戦闘史㉝㉞)

同年七月、明智十兵衛光秀は、惟任と改姓し日向守を受領して、以後惟
任日向守光秀として歴史にその名を記していきます。(四人の天下人⑱
⑲⑳㉑)

「兼見卿記」の同年五月の記述では、光秀を明十とよんでいたのが、八月
には惟任日向守となり、以後惟日と記されていきます。

信長公記」は七月三日

信長御官位を進められ侯への趣、勅諚御座侯と雖も、御斟酌にて御
請けこれなし。

とあり、信長は官位を進めることを躊躇します。その後

併、内々御心持侯ふや、--------明智十兵衛は、惟任日向に
なされーーーーー丹羽五郎左衛門は惟住にさせられ、忝きの次第なり。

とあり、ここに信長による朝廷への、光秀らに対する改姓への推挙があっ
たかどうかは確としませんが、光秀は信長により強制的に改姓させられま
す。

この改姓の経緯にはわかりにくいことが多いのですが、天皇、朝廷から皇
族でもない光秀らが、賜姓の対象になることは不自然であり、信長の趣味
が如何なく発揮された改姓作業だったと思われます。

九州名族らしき名前を光秀らに名乗らせ、武田氏を撃破しその脅威をとり
のぞいた信長は、西方の毛利氏との戦いにそなえ、心理戦を展開していき
ます。

惟任の姓は決して天皇、朝廷から与えられたものではなく、信長と近衛家
らがでっち上げた、九州名族らしき姓を光秀は名のっていきます。(光秀
と朝廷・公家社会⑦)





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