惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㉛)

 
 

天正二年一月二十七日、武田勝頼東美濃に出兵し、この地の武田方

の拠点岩村城から八キロ程の距離にある、織田方の明地城に対して攻
撃を開始しました。

その報せを聞いた信長は、信忠とともに出陣し、その頃大和の多聞山城
の留守番であった光秀も、参陣していることが史料から確認できます。

山岳地帯であり、信長が軍の運用に苦慮している間に、城内で武田方に
内応する動きがあり、城は落ちました。

信長が大和からわざわざ光秀をこの地に派遣した事には、なにか意味が
ありそうですが確たることは不明です。元亀二年にも光秀はこの地で戦闘
に参加していたようですが、やはり遠方からこの地に来ていることには、
光秀ならではの特殊事情があったと思わざるをえません。
(濃州余談㉓)

信長は落城を聞くと、軍を岐阜へ戻し、光秀も坂本へと帰還します。

その後、志賀郡の経営や、都で村井貞勝とともに代官としての業務にあた
り八月になると、本願寺門徒との戦闘が激烈化していた攝津河内での戦
闘に参加し、転戦を重ねていきます。

越前に赴き、その後席を暖める間もなく、東美濃、摂津河内、大和と部隊
を率いて転戦していく光秀の姿には、信長の光秀に対する信頼感が見て
取れます。

叡山焼討ちの立役者であり、義昭追放にも貢献した光秀は、信長にとって
有用な駒の一つとなっていました。



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