惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会㉛)

 
 
 

天正九年二月二十八日、内裏の東側に、北から南へ八町(880メートル程)

の距離がある馬場を、毛氈で包んだ柱を立てて造り、内裏東門側の築地の
外側には、金銀を散りばめた行宮を設けて、天皇、公家を迎え馬揃えは開
催されました。

信長は下京本能寺を辰の刻(午前八時頃)に出て、室町通りを上り、一条
を右折して東へ進み、御馬場へ入場します。

この馬揃えは、信長の趣味の世界が遺憾なく発揮された一大イベントであり
畿内全域における、本願寺等の宗教勢力を屈服させた戦勝パレードでも
ありました。

惟住長秀は、領国若狭衆の他に、摂津の国衆を率い一番目に入場します。

二番蜂屋頼隆は、領国和泉衆の他に、河内衆、そして根来衆の一部を率
います。

摂津、和泉、河内は石山本願寺の軍事力、経済力の源泉であった場所で
、織田重臣がその国衆を統率し、馬場に登場することで、本願寺勢力圏の
織田分国化を演出しています。

三番手の光秀は本来の領国である、近江坂本、丹波の国衆ではなく、大和
衆、上山城衆を率いて登場し、南都の大寺院と密接な関係を持つ大和国
を管理下においていることを示し、複雑な歴史を持つ、上山城衆を統制す
ることで、畿内の織田分国化をアピールしています。

四番手村井貞勝は、上山城、根来衆を統率し、織田信忠ら一門衆のあとに
は、越前衆を率いた柴田勝家が入場します。

越前は、かって本願寺勢力の拠点であり、馬揃えにおける騎馬部隊を構成
するその他の国衆も、織田により制圧された本願寺勢力圏を基盤にしてお
り、大和衆、根来衆とあわせて、信長の対宗教勢力に対する優位性を、万
人に知らしめる演出の場が、この都での馬揃えでした。

そこに天皇を招き、天皇、朝廷の宗教勢力保護を演出し、宗教勢力の政治
の場からのすみやかな退出を、信長は寺社に対し強要します。

これらを組み立てた光秀の、政策を具現化する能力は、ずば抜けたもので
あることがわかります。

織田政権内での天皇、朝廷の役割を明確化したのが、この馬揃えであり、
その見返りとして、貢馬御覧の儀式を復活することで、政権から、天皇
の資金援助がおこなわれました。

しかし残念ながら、信長の天才的な政治センスのよさを理解できる人物は
、光秀ら少数の人間のみでした。天皇と朝廷は信長の真意を読み違え、こ
の後、大きな混乱を生むこととなります。

 
 
蜂屋頼隆
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頼隆宛顕如書状
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