惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆㊵)

 
 
 

「遊行三十一祖京畿御修業記」は、遊行三十一代同念の、天正六年

(1578年)七月から、同八年三月までの遊行の記録です。

伊豆より海路伊勢に入り、尾張、美濃、近江、都、大和を巡教し、それ
以前は、駿府で活動していました。

天正六年七月、織田信長へ使者を送り、織田分国内での布教ならびに
通行の自由を許可されています。

同年末には、尾張富田荘にあった光明寺に滞在しており、翌年には、鷹
狩りで、清洲に立寄った織田信忠の訪問を受けています。

同年七月、同念は美濃入国後、岐阜城に信忠を訪ね、その後、垂井金
蓮寺にいた同念を、信長は安土城に招待しています。

しかし荒木村重の謀反により、信長との面会は中止となりましたが、二
ヶ月後、京都で対面しました。(光秀戦闘史㊻)

織田家と時衆の関係が円満であることがわかります。同念は尾張滞在
中、光秀と知己の仲である光明寺住職の梵阿を通じて、光秀に大和国
での円滑な遊行を依頼します。

光秀は、奈良を勢力圏に置く与力の筒井順慶にその旨を告げ、巡教の
手助けをしています。

梵阿と光秀は、光秀が越前称念寺の門前に寄寓していた時からの知り
合いである、と言われますが、確たる事は不明です。

又、その後光明寺は、秀吉により所領を没収されますが、これは光秀と
の関係性を疑われたとの説があります。

時衆は、本願寺の勢力伸張により、信者を奪われており、織田家との関
係を重視することは当然であり、光秀を始め、時衆と何らかの関係性を
持つ、家康、秀吉、細川藤孝らとの交流がみられます。

織田家京都所司代村井貞勝も時衆に帰依しており、同念は正親町天
皇を参内し十念を授けました。

一遍以来の、弱者に寄り添う時衆の姿勢が、大きく変化していることが
わかります。