惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㉚)

 

天正二年甲戌


正月朔日、京都隣国ノ面々等、在岐阜ニテ、御出仕アリ。各
三献ニテ、召シ出ダシノ御酒アリ。他国衆退出ノ巳後、御馬
廻バカリニテ、古今ニ承リ及バザル珍奇ノ御肴出デ侯テ、又
、御酒アリ。去ル年北国ニテ討チトラセラレ侯

一、朝倉左京大夫義景首。一、浅井下野、首。一、浅井備前
、首。巳上三ツ、薄濃ニシテ、公卿ニ居置キ、御肴ニ出ダサレ
侯テ、御酒宴。各御謡、御遊興。千々万々、目出タク、御存分
ニ任セラレ、御悦ビナリ。

信長公記」によれば、天正二年正月一日、信長は、朝倉義景
浅井久政・長政父子計三名の首を、恐らくは金粉で彩色し、
衝重の上に乗せ、それを肴に酒宴を催し、謡いや遊びに興じた
とあります。

この三名が死亡したのは、八月ですから、一度埋葬した首を掘
り起こしたのでしょうか。

都周辺で信長に新たに従属した武将たちが退席した後、馬廻
のみとだけ楽しんだとあります。

信長の異常性がみてとれる一件ですが、信長馬廻り衆というの
も親分に似てか、残虐性を兼ね備えており、万見らは、戦闘の
邪魔になるとして、農民達を切り殺しています。

比叡山における僧侶虐殺の実行部隊は、この馬廻りらであった
と思われ、信長家臣団に対する、一種の恐怖感を伴った威圧的
集団になりつつあったのでしょう。

いずれにしろ、軍事天才信長のサディズム如実に現れた事象
であり、同性愛の対象である馬廻りと、それを楽しむ信長の異
常性は、歯止めの利かない物になりつつあったことがわかりま
す。



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