惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㉜)

 

天正三年四月四日、光秀は河内高屋城に籠る三好康長攻撃の

為、都を出発しました。

翌五日、細川信良が率いる旧幕府奉公衆が、そして六日、信長
率いる主力一万余が河内へと向かいました。

「兼見卿記」によれば、

明智十兵衛尉出陣南方、二千騎、

とあり以前と比較して、部隊動員数の増加が見られます。
(光秀戦闘史⑰)

三宅弥平次や佐竹宗実らが率いる洛北武士団と猪狩野氏や馬場
氏ら堅田衆を中心とした志賀郡の土豪らがその主力であり、この
時点では、旧奉公衆らはその傘下に属していなかったことがみて
とれます。

信長は同月二十一日には都へ戻り、二十八日に岐阜へ出発し、
三河へ進出した武田勝頼と長篠で対峙します。

このころ信長は、織田分国内の軍用道路の整備を加速させており、
吉田兼見にも、道路普請を命じています。
これは幅三間の広さで、一間は六尺(1,818m)で、兼見は北白
川から上京地区の担当を命ぜられます。

兼見は、普請免除を村井貞勝に申し出ますが、許可は適いませ
んでした。

軍用道路の拡充により、織田軍団は大軍の迅速な移動が可能に
なり、内線を安定的に確保することができ、多方面に敵を受けても
、効率的に軍を移動させる事で、軍事的に対応できるようになりま
す。

これは武田信玄の軍事道路拡充と同様に、分国の経済的支配を
容易にし、織田領国支配の要の一つであったと思われますが、そ
の実態は定かではありません。

光秀は、長篠戦には参加しておらず、恐らくは河内に在陣してい
たと思われますが、長篠戦後の六月、丹波国の内藤氏、宇津氏
討伐を命ぜられた川勝継氏、小畠左馬介の援軍として丹波に派
遣されます。

この後、長い丹波での光秀の戦いが始まることになりますが、併
行して、再度の越前攻めや本願寺勢との戦いに動員されており、
織田軍団の主要部隊として戦闘に参加する姿をみてとれます。


高屋城跡
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