惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ㉓)

 
 

信長公記」によれば、信長は秀吉からの高松城攻めの一報をうけ


此等ノ趣聞コシメシ及バレ、今度間近ク寄リ合ヒ侯事、天ノ与フル
トコロニ侯間----御動座ナサレ、中国ノ歴々討チ果タシ、九州
マデ一篇ニ仰セツケラルベキノ旨、上意ニテ、堀久太郎御使---
惟任日向守、長岡与一郎、池田勝三郎、塩川吉大夫、高山右近、中
川瀬兵衛ーーー先陣トシテ、出勢スベキノ旨、仰セ出ダサレ、則チ御
暇下サル。
惟任日向守、安土ヨリ坂本ニ至リテ帰城仕リ、何レモ同時ニ本国へ
罷リ帰リ侯テ、御出陣用意侯ナリ

とあるように、高松城の後詰の為、進出してきた毛利勢との主力決戦
を行うべく、光秀をはじめ安土に参集した武将に対し、領国へ帰還し出
陣の用意に専念するよう命じています。

光秀は十七日他の武将同様安土を離れています。主要な織田家家臣
徳川家康との顔合わせはこの時点で完了していたのでしょう。

家康への饗応役は、惟住(丹羽)長秀と長谷川竹ら信長側近が引き継
ぎ、二十一日、家康が信忠とともに安土を離れるまで、もてなしは続き
ます。

二十日には、家康、穴山梅雪および石川、酒井ら家康重臣に対して

御座敷ハ高雲寺御殿、家康公ーーーー家老ノ衆ニ御食ヲ下サレ、悉
クモ、信長公御自身御膳ヲ居エサセラレ、御崇敬斜ナラズ

とあり、信長自ら、家康のみならず家老らの膳を並べたとあります。

信長のこういった行動は他の史料のなかにも散見し、フロイスらが岐阜
城を訪問した際にも、信長自ら彼らの膳を運んだとあります。

信長は機嫌がよかったのでしょう。

この時、安土城信長が家康を饗応した際の、料理の献立といわれるも
のが残っています。

出所は、宮内省図書寮とあり、光秀が饗応役であった十五日から十六日
にかけての献立明細が記されています。(続群書類従より)

几帳面な光秀らしく、事前に信長や家康らに、献立表を伝えておいたもの
が何らかの理由で残ったのかもしれませんが、詳細は不明です。

料理をめぐるトラブルが、信長と光秀のあいだにあったといわれています。
しかし、それを裏付ける一次史料は存在せず、光秀による家康接待は淡
々と遂行され、軍事的理由により光秀がその任を離れたことが史料からも
確認できます。



天正十年安土御献立
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