惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ㉝)

 


「津田宗及茶湯日記」には、天正十年正月朔日、安土城における

年賀の様子がこう記されています。

上様御禮申上候、惣見寺通ニ罷上候、鳥目十疋ツ、持参仕、直
ニ御手ヘトラセレ候テ忝次第也、御幸之間オガミ申候

信長は参賀に来た大名らを台所口にまわらせ、白州に降りてみ
ずから現金十疋を受け取り、背後にある御幸の間に投げ入れた
とあります。

宗及はありがたいことであり、皆々御幸の間に手をあわせ礼拝し
たとあります。

この信長の行為が、自らの神格化を意図したものであるかどうか
には検討の余地があります。むしろきたるべき天皇の安土御幸を
臣らに実感させることが主目的であったような気がします。

この時光秀は最初に十疋を信長に渡しています。

同年正月七日、坂本城で茶会が開かれます。参席者は宗ニ、宗
及で宗ニが茶頭をつとめています。その内容は

床ニ上様之御自筆之御書カケテ
爐ニ八角之釜ーーーーーーー

とあり、信長の直筆書を床にかけ、信長から拝領した八角釜を用
いて茶会が催されました。この八角釜は、同日記の天正六年正月
十一日付けの記述に光秀が

上様ヨリ元旦ニ拝領ノ八角釜御開帳也 とあるように拝領後頻繁
に茶会で用いています。

しかし、信長直筆書を床にかけたとの記述に関しては、はたして
信長に、茶会にふさわしい和歌などを書ける器量があったのか疑
問ですし、信長はそういう趣味を全く持ち得ない人物でした。

天正七年正月の茶会には、光秀は藤原定歌の色紙をかけていま
す。      あわぢ嶋かよふ千鳥の哥也

信長の 天下布武 を色紙にして床にかけたのでしょうか。無粋
以外の何者でもない信長の掛け物は何を物語るのでしょうか。

同年正月廿五日の茶会が光秀と宗及の最後の茶会になりました。
その様子は

床ニカタツキ 方盤
爐 平釜 従上様御拝領 始テ

とあり、光秀が新たに茶器を信長から拝領したと記されています。
宗及はその一ヶ月前信長に会っており、対面時の信長の様子を

歳暮之御禮ニ安土ヘ参上候、即上様ヘ懸御目候ーーーー一段
仕合能候テ御気色目出度候也

と記して、信長の機嫌の良さを伝えています。

「兼見卿記」内でも、正月に坂本城を訪問した兼見に光秀は上機
嫌で接したとあります。(光秀戦闘史Ⅱ⑫)

本能寺襲撃の半年前までは、信長、光秀ともに充実した納得でき
る日々を過ごしていることがわかります。


銘水の子               伝津田宗及所持
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