本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ㉞)
「細川忠興軍功記」によれば、本能寺で信長を打ち果たした光秀は
光秀公具足乍召御参内被成扨洛中之地子被成御免高札御立被
成候事
とあるように、甲冑を着けたまま禁裏に参上します。戦闘を終えた
ばかりといえ、軍装のまま参内するのはあるまじき行為であり、光
秀の行動の不自然さがこのあたりから目立ってきます。
本能寺襲撃後の光秀の動きには一貫性がなくなってきます。光秀
の失敗の一つは、安土城制圧に向かったことにあると思われます。
光秀は、大阪表にある織田信孝と惟住(丹羽)長秀軍制圧を第一
畿内への急速な接近を許します。
光秀は全軍をもって都から摂津へむかい、織田信孝軍を殲滅し織
田信澄と合流すべきでした。信孝らの四国派遣軍は兵員不足の上
寄せ集めであり、信長の死亡を聞くと逃亡者続出の状態でした。
織田軍内の精鋭部隊である光秀軍と対抗できる部隊ではなく、そ
の制圧は渡海している三好康長軍の孤立と崩壊を招き、長宗我部
氏の反転を促したと思われます。
筒井順慶傘下の大和衆が、摂津侵功の動きをみせたのは当然で
あり、光秀は順慶とともに大阪で戦端を開くべきでした。
(光秀戦闘史Ⅱ㉕)
しかし光秀は安土へ向かいます。瀬田橋を落とされ安土城に到着
し信長の残した財宝を家臣に分け与えていたときには、状況は急
速に光秀にとって悪い方向に向かい始めていました。
光秀の軍事面での悪癖とセンスの無さが露呈しており、スピード感
に欠ける展開は、織田信澄を信孝らに討取られるという結果を招き
ました。信澄は信長なきあと信長に殺された実弟信行の嫡男として
織田家の中枢に据える事ができる人物でありました。
光秀の娘婿である信澄の最後について、軍功記はこう記しています。
信孝や丹羽長秀は、信長の弔い合戦の為に、信澄に先手を命じつけ
るべく兵士を派遣したところ、それを攻撃と勘違いした信澄は本丸
に対し攻撃を仕掛けます。それを信孝軍は鉄砲で制圧し、千貫矢倉
で信澄を切腹に追い込みその首を堺に晒します。
光秀は最優先で信澄に接近を図るべきでした。彼の死は結果として
順慶の離反を促しました。(光秀とその日常⑤)
を討ち果たしていれば、順慶の離反を招かなかっただろうし、信澄
を取り込み大義名分を得ただろうと思われます。
光秀の戦略的センスのなさと、がむしゃらさに欠けるところはその
文人的気質によるのでしょうか。
いずれにせよ本能寺後の光秀の行動は、行き当たりばったりであり、
計画性が微塵も感じられません。