惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ㉟)

 
 

天正十年六月六日、吉田兼見は、勧修寺晴豊より書状を受け取り、参内し

ます。誠仁親王と対面し

日向守為御使罷下、京都之義(儀)無別義之様堅可申付之旨仰也

と「兼見卿記(別本)」にあるように、安土にいる光秀のもとへ勅使として
赴くよう命ぜられます。

光秀に都の治安を変わりないよう警固せよと、の詔ですが、帰り道兼見は
自御方御所者無御音信之儀  とあるように、吉田家の主筋である近衛
邸から何も連絡がないのを不思議がっています。

翌日早朝、弓衆二名を含む兼見ら総勢十名は武装し安土へ向かいます。

道程にかなりの危険が予測されたのでしょう。安土へ着くと、明智秀慶の
小姓新八に伴われ登城しますが、城門外で暫く待たされます。光秀と面
識のある鈴鹿喜介がまず城内へ入り、その後兼見も入城し光秀と対面し
ます。

御使いの旨を光秀に伝え、朝廷からの段子一巻を渡します。

その後、兼見は兼見個人が持参した鍬を光秀に渡します。光秀は兼見に
今度謀叛之存分雑談也 とあるように、今回の謀反に対して思うところを
述べています。存分には意趣、遺恨の意味もあり光秀は感情の入った話を
したのでしょう。

兼見が光秀に渡した鍬には祝いの意味があり、深読みすれば安土城が光
秀の居城になったことを祝う意味があるのかもしれません。

その後兼見らは下山し、麓にある町屋に一泊し翌朝都へ戻ります。

兼見が信長謀殺の首謀者の一人であるとの説があります。しかし光秀が今
回の謀反の存念を、兼見に述べているところをみると、その可能性はない
と思われ、又重要な盟友を町屋になど泊めなかったでしょう。

光秀は私事と公事を明確に区別できる人でした。翌日、光秀は攝津攻略の
為軍を動かしますが、遅すぎる進軍でした。