惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆㉜)

 
 

永禄九年(1565年)八月、信長の上洛戦は、斎藤龍興の和議破棄によ
り不首尾に終わります。

これは三好三人衆による調略によるものであり、その手は六角氏にも
のびていました。

これにより義秋(義昭)は、若狭その後越前と在所を移動させますが、こ
の信長による上洛戦の詳細は、米田家に残っていた、複数の書状で知
ることができます。

この書状の日付はすべて、八月二十八日で、信長の進軍ルートにあたる
土豪領主らに対して、織田軍への協力を依頼するものでした。

しかしこの書状は、龍興の裏切り等により計画が頓挫することで、発給さ
れることなく、米田貞能のもとに残りました。

明智資料㊼を見ていただくと、貞能が記した医薬書の裏面の日付が八月
二十八日になっており、これら不要な書状を再利用したことがわかります。


又、光秀と細川藤孝に近い幕臣との交際を知ることができ、義秋の越前へ
の移動を待たずして、光秀と藤孝の関係が成立していたと推測できます。

医薬書の奥書に記されている田中城とは、朽木氏の支流田中氏の居城で
ともに足利将軍家に忠誠心の強い一族でした。

光秀が、沼田勘解由左衛門と田中城にいた理由はわかりませんが、朽木氏
は、その後光秀が治めた丹波福知山藩の領主となり、光秀の霊を慰撫して
います。(濃州余談⑤)

光秀と足利義秋が、始めて出会ったのは義秋の越前移動後だったかもしれ
ませんが、永禄九年九月の段階で光秀と幕臣との交流があったのは間違い
ないでしょう。



三淵藤英、一色藤長書状
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