惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆㉝)

 
 
 
 

永禄九年九月、近江田中城に光秀と共に籠城していた、沼田勘解由左

衛門とは、沼田清延のことで、幕臣として義輝、義昭に近侍し、その妹
麝香は細川藤孝正室となっています。

麝香は細川忠興の実母であり、自害した光秀娘玉に影響され、洗礼を
うけ細川マリアと名乗りました。

この時点での、藤孝と光秀の交際を記した史料はありませんが、そこに
なんらかの関係性が存在していた可能性は高いでしょう。

矢島が危険な状況となり、義秋らは田中城に移動したのでしょう。しか
しその後義秋らが、越前朝倉氏の許に至るまでの経緯は、明確に判って
いません。

恐らくは、義栄側の追求の手から逃げ回っていたのでしょう。義栄が十
四代征夷大将軍に就任するのは、永禄十一年二月であり、同じく従五
位下左馬頭に就任している義秋は目障りな存在でした。

朝倉氏の許での、義秋の確実な動向を知る事例は、永禄十一年四月、
朝倉義景を加冠役として元服し、名を義昭と改めたことです。

福井県史」通史編によれば、若狭国に入った義昭らは武田氏の内紛
を嫌い、越前敦賀に移ったが、朝倉氏も一向宗の支援をうけた堀江氏
の反乱鎮圧に多忙であり、義昭が朝倉氏の本拠地一乗谷に入ったの
は永禄十年十一月であったとあります。

義昭が、朝倉氏の許を離れ、信長が制圧した美濃国に到着するのは、
翌年七月であり、一乗谷での滞在期間は九ヶ月ほどとなります。

「細川家記」によれば、時期は明確ではありませんが、この間に光秀
と藤孝の出会いがあったと臭わせています。(光秀と信長⑦)

家記として重要なことは、細川忠興正室玉の出生地を特定する事であ
り、この作業により、玉の由来は明確化しましたが、逆に光秀と朝倉氏
の関係性が不透明なものになりました。

いずれにせよ、義昭の入国に対し、義景は最大限の歓待をもって遇し
ており、義昭宅への訪問は盛大でした。
 
 
 
朝倉義景「義昭」亭御成記
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