惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

明智資料㊼

 
 
 

熊本大学永青文庫研究センターの稲葉教授が、文庫内に現存する

米田家伝来の文書群の中から、光秀に関係する文章を解読されま
した。

これは当時の薬の調合を記した文書で、その奥書(文書の最後に
その由来を書きしるしたもの)に


この調合書は、明智十兵衛尉が、近江国高嶋郡の田中城に籠城し
た時、共に籠城していた沼田勘解由左衛門が、光秀から聞き取った
内容を、米田貞能が沼田より聞き、書き留めたもの


とあります。永禄九年十月の日付があり、米田貞能の花押が印され
ています。

米田家は、熊本藩細川家の家老を代々つとめた家柄で、幕臣として
細川藤孝に近く、同じく幕臣である沼田家同様細川家の家臣団に組
み込まれました。


「言継卿記」内の記述では、光秀は、山科言継宅に薬を所望し度々訪
問しており、当時一流の医学者であった言継から薬をもらっています。
 

この文書は薬の調合書であり、俗書と相違して、虚偽を書く必要がな
く、光秀が幕臣とともに田中城に籠城して、なんらかの軍事作戦に従
事していたことがわかり興味深いものがあります。


これにより、光秀が、幕臣側から信長へ接近した可能性が高いことが
わかり、光秀娘婿織田信澄が、大溝城を築いた時、その縄張りを光秀
が行ったことも理解できます。(濃州余談㉒)


光秀が医術や薬について深い知識をもっていたことは、当時の史料か
らも推測されていましたが、これはそれを裏付ける決定的な史料であ
り、幕臣光秀の新たなる側面がみてとれます。


光秀は山科言継以外にも、曲直瀬道三、施薬院全宗ら当時一流の医
学者と深く交わり、光秀のこの方面への傾倒を知ることができます。
(四人の天下人㊾)(光秀戦闘史㊵)


長篠戦のとき、鉄砲の火薬の調合、戦地への輸送は細川家が担当し
、光秀はその差配をおこなっている可能性が高く、光秀が鉄砲の専門
家として、織田家中で群を抜いた化学知識をもっていたことがわかり
ます。


光秀の行政官としての資質のみではなく、こういった技術者としての
彼の才能を、信長は愛し、高く評価していたと思えます。



医薬書 針薬方
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