惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆㉛)

 
 
 

永禄八年(1564年)七月、覚慶(足利義昭)は近江国甲賀にある和田

惟政の館に入り、三淵藤英、大館宗貞、沼田清延、曽我助乗らの兄
足利義輝の側近がそこに参集した、と「足利季世記」は記しています。

覚慶は、八月には上杉謙信に書状を送り、兄義輝の無念を晴らした
い旨、協力要請をしています。

更に、安芸の毛利元就能登畠山義綱らに書状を送り、都への出
兵を依頼しています。三河松平家康は

其、一乗院殿様御入洛之故、近国出勢之事被仰出之旨、当国之儀
不可存疎意候、此等趣御意得専要候

といち早く協力への意志を表明しています。

同年十一月覚慶は、足利義栄側の三好三人衆松永久秀が軍事衝
突した隙を縫って、甲賀から都に近い矢島に拠点を移しました。

翌年二月、覚慶は還俗して義秋と名乗り、その後義昭に改名します。

四月には従五位下左馬頭に任じられ、順調に将軍への道程を、歩ん
でいましたが、三好三人衆に擁立された義栄が、摂津国富田へ進出
し、都を軍事的に制圧する意志を示すと状況は一変します。

同時期義昭は、家康を仲介とし、和田惟政に信長との接近を図らせ、
細川藤孝が出兵交渉等の実務を担当し、藤孝は美濃、尾張を訪問し
信長と斉藤龍興の和平に尽力しました。

信長は同年八月二十一日、和議が成立したことを受けて、都への出
兵を藤孝に約し、二十九日には軍を美濃との国境に動かしますが、
三好三人衆の調略をうけた龍興により、撃退され、美濃国の通過を
阻止されました。

この交渉時期、藤孝の有力なブレーンとして、光秀があったと推測さ
れますが、それを裏付ける史料はありません。

更にこの動きに連動してか、近江の六角氏が義昭から離反します。

軍事的背景を喪失した義昭陣営を、三好三人衆が攻撃するとの情
報があり、義昭は矢島から、妹婿の若狭の武田義統のもとへ、難を
避けて移動しますが、そこも安全といえず、伯父である大覚寺義俊
と関係の深い、越前の朝倉義景のもとに逃れました。

同年十二月には、義昭の対抗馬である義栄も、従五位下左馬守に
叙任され、一年と二ヶ月後に十四代将軍に就任します。